スウェーデン語で否定する inte

「英語を知らないほうがスウェーデン語の吸収が早い」と言われたことがある。
仕事で英語の翻訳をしているのもあって、スウェーデン語を学ぶのになにかと「英語では~だから」とすがってしまっていた。
たしかに学習を進めるほど英語に頼るとかえって混乱するので、泣く泣く英語とはお別れすることになる。
*ただし、辞書はスウェーデン語=英語を使うしかないのでそのときだけは英語解禁。

スウェーデン語のお勧め辞書:
Norstedts svensk-engelska ordbok : Professionell

英語と離れて良かった~と感じたのは「inte」と出会ったときだった。
と同時に、英語を引きずっていると段々「inte」の場所がわからなくなっていくので、「inte」は純粋にスウェーデン語で考えられているかのリトマス試験紙にもなる。
まず肯定文と疑問文を比べてみるとわかるとおり、スウェーデン語では英語のように疑問文を作るとき「Does she~?」とするのではなく、動詞を丸ごとドンッと先頭に持ってくる。
肯定文:Hon tvättar öronen. (She washes her ears/ 彼女は耳を洗います)
疑問文:Tvättar hon öronen? (Does she wash her ears?/ 彼女は耳を洗いますか?)

そして、否定文はこのとおり。
否定文:Hon tvättar inte öronen.(She does not wash her ears/  彼女は耳を洗いません)
動詞の後ろに「inte」をくっつけるだけで良い。
ここでも英語がちらつくと「inteをどこに入れたらいいの病」が出そうになるので英語禁止。

で、疑問否定文。
つまり「彼女は耳を洗わないのですか?」と言いたいとき。
ここで英語が顔を出してしまうと、もう致命的だ。

英語が「Doesn't she wash her ears?」だから……
Tvättar inte hon öronen?
それとも
Inte tvättar hon öronen?
しかし、これらの文はどちらも大きな間違い!!

正しくは
Tvättar hon inte öronen?(彼女は耳を洗わないのですか?)

「inteをどこに入れたらいいの病」で心がざわつくときは思い出すようにしている。
「inteの場所がいつもわからなくて」とこぼした際、スウェーデン語学習の先輩が教えてくれたやさしい一言。
「inteは元の場所でいいんだよ」

 

スウェーデン語の名詞 1 定形と不定形

スウェーデン語を学び始めて、まずつまずいたのは文法用語だった。
ただでさえ、名詞も動詞も形容詞も活用でどんどん単語の形が変わっていくのだけど、その理屈を理解するための文法用語(日本語)がわからず苦労した。

まず名詞の定形と不定形。
不定形:Han läser en bok.(彼はを読んでいます)
定形:   Han läser boken.(彼はその本を読んでいます)
つまり不定形は英語でいう「a(an)~」、定形は「the ~」。
このルールだけみると簡単そうなのだが、名詞には共性名詞と中性名詞があり、さらに定形・不定形のパターンは5つある。
上記の「bok(本)」は共性名詞の第3変化なので単数定形は「boken」となるし、複数不定形は「böcker」、複数定形は「böckerna」。大混乱。。

それになぜか、わたしはしばらく「定形」と「不定形」を逆にとらえていた。
定形のほうが単語の元の形っぽいというイメージを勝手に持ってしまっていたのだ。
定形はカチッと単語を固定して定めるから「the ~」、不定形はふにゃふにゃとして捉えられずどれか一つを指すわけではないから「a(an)~」と何度も何度もイメージを上書きしてやっとこの文法用語を覚えられた。
覚えたといっても、日本語の文法用語、なのでトホホ感が否めないし。

で、肝心の定形・不定形の5パターンは下図のとおり。

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こうして並べてみると、膨大な数の名詞の変化を覚えるなんて、無理、吐きそう!!
と投げ出しそうな気になる。
けれど、言葉の習得は自転車に乗るようなもので、学習をつづけるうち、頻出する単語、たとえば「en Kvinna(女)」の定形が「Kvinnen」などと書いてあったら違和感で肌がかゆくなるようになってきた。
誤:Vad heter kvinnen?
正:Vad heter kvinnan?(その女性の名前は?)

すこしずつ意味のないように思えたものに血や息吹がふきこまれることで、見える景色まで違ってくるから不思議。
古代の人々が星々をむすんで星座を生むように、スウェーデン語のかけらをひとつひとつ拾って、今まで見えていなかったけれどそこにあったものを感じてみたい。

スウェーデン語の発音 Å, Ä, Ö

スウェーデン人は英語が堪能。
ということは、スウェーデン語と英語は発音が似ているのでは?
そう思っていたけれど、全然ちがった。
まず、アルファベットに見慣れない文字が混ざる。
Å(オー), Ä(短めのエ), Ö(エとオの間)
Äは「är」という「vara動詞(英語でいうbe動詞に近い)」の活用で頻発するのでわりと早い段階でなじむし、Åも前職のスウェーデン人にÅsa(オーサ)という名前の方がいたからすぐに覚えられた。
が、Öである。
スウェーデン語をはじめて間もないとあまり出てこない文字で、たまにÖが顔を出すとスウェーデン語の授業中にかたまる。
迷いながら発音すると、「Ö」のひと文字を「エオアオエ」と嗚咽のような声を出してしまうことになり脂汗がにじんだ。

.....でも、こんな単語をみつけてからは大丈夫!!
Öl(ビール)
Jag tycker om öl.
Jag dricker en flaska öl.
Låt oss dricker en flaska öl!!!
何度も発音したくなる単語をみつけると自然に身についていく。

ほかにもこういう特徴的な発音がある。
1.「sk音(エスコーオン)」
skära(シェーラ、切る)、skärp(シェルプ、ベルト)、diskussion(ディスクショーン、議論)など「シュ」のような「ヒュ」のような空気音
2.「dj、gj、hj、li」
djur(ユール、動物)、gifta sig(イフタセイ、結婚する)、hjälpa(イエルパ、助ける)、ljud(ユード、音)
d、g、h、lの後ろにjがつづくと先頭の文字は読まない

スウェーデン語は森に流れる水のような音で、ネイティブの会話はグリーグの『春に寄す』という曲に近い。
グリーグノルウェーの作曲家だが、北欧の光や音が言語を形作っていくということがあるのかもしれない。

スウェーデン語はじめました

人の運命というのは不思議なもので、スイスとスウェーデンの違いもよくわからず、「スウェーデンって海賊の国だっけ?」くらいの、あんぽんたんな認識しかなかったのに、数年前から、スウェーデンとの縁が急速に結ばれていった。

前職でスウェーデン出張がとつぜん決まり、Räfven(レーヴェン)というバンドを好きになり、スウェーデン語の絵本を翻訳した方と出会い、今年、その方が通っているスクールでスウェーデン語を学びはじめた。

「a,b,cもわからないところからはじめたのよー」という言葉に、心の芯からワクワクしてしまって。

1月からの入門クラスで、わたし(41歳)以外は10代か20代ですが、なにかを始めるのに年齢は関係ない、はず。

目標は翻訳ができるようになるまで。
備忘録代わりに、スウェーデン語レッスンの記録を残してみます。

 

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2019年1月 yo-i「プログラミング×英語×ヨガ入門イベント」を開催いたしました

2019年1月、yo-i「プログラミング×英語×ヨガ入門イベント」ぶじ終了いたしました!
紆余曲折あり、夫婦げんかもありつつ(笑)、なんとか当日を迎え、おかげさまで満員御礼(ホッ)。

わたしは英語パートを担当したのですが、《みなさんの前で、英語が苦手な夫に自分の習得方法を伝授する》という、ドキュメンタリー映画風の演出を試みました。

異常なくらいスターウォーズを愛する夫に、海外のスターウォーズマニアが語る映画評(youtube)を聴き取ってもらいます。
でたとこ勝負、「うまくできなかったらどうしよう。。」とハラハラドキドキでしたが、どうにか成功!

はじめは「英語が早口すぎる」とパニックを起こしていたものの、わたしの方法を試すうち、徐々にピントがあっていきます。
もしかして『最後のジュダイ』の、あのシーンについて話しているのかなーと話の輪郭が見えてきて、ついに「あ、わかった!」という瞬間が訪れました。

そのシーンは、公開当時、観客のあいだで賛否両論あったのですが、youtubeスターウォーズマニアも夫と同意見だったようです。

感動する夫の姿に、わたしもひと安心。

受講者の方からも「目の前で、他人が英語を理解した瞬間が見られた。すごい!!」というご感想をいただけて、ほんとうにうれしかったです♪

つぎは、見てもらうだけでなく、参加されるみなさんが「お、これなら自分にもできそう!」という瞬間を体験していただけるプログラムにしたいなー。

次回は3月あたり「プログラミング×英語×デザイン入門」を考えています。

プログラミング×英語に加え、服とタイポグラフ(http://vetements-et-typograph.com/)主宰者の方をゲストにお招きし、グラフィックデザインを教わる予定です。

yo-iをはじめたきっかけ
https://note.mu/saito_norihiko/n/na4af34fb9d16

邂逅

闌けた夏の夜だった。
ひぐらしの鳴き声の隙に、鈴虫の声が幻のように聞こえてくる。
仕事帰り、自宅まであと一歩手前というところ。ゆるやかなカーブのちょうどこぶのあたりに、見慣れないダンボール箱が置かれていた。
宅急便の送付状を貼っては剥がし、なんども使ったのだろう。側面には白いシールの跡がいくつも付いている。
ぼろぼろのダンボールは、やっとのことで形を保ちながら、数少ない街灯の真下にあり、箱ぜんたいに光があたっていた。
芝居小屋にいる気分になったのを覚えている。
重要なシーンが始まる直前、観客からの期待を一身に背負っている箱が、その存在感で、こちらになにかを訴えてくるかのようだった。

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わたしは、デザイナーズ・ブランドを扱うセレクトショップで、ハウスマヌカンとして働いている。
広報志望で受けたのに、まずは売り子の経験を、と辞令が出た。勤めはじめてことしで10年。ふと物思いにふけると、「もう10年」と「まだ10年」のあいだを行ったり来たりしてしまう。
それでもわたしは、憧れだったショップで働けることに誇りを持っていた。
タキシード姿のドアマンを携えた、黄金のエントランス。オニキスと石灰岩をラグジュアリーに組み合わせた床。10階までをつらぬく円形の吹き抜け。ディスプレイ用には生の果物を使い、腐敗までをアート作品として陳列する。
どこまでも贅をつくそうという心意気が館内に行き渡り、建物自体が蠱惑的に人々を誘惑する。わたしもこの風景の一部なのだ、と思うと、自分までうつくしいものである気になれた。
もちろん仕事は厳しい。
早番は朝が早すぎるし、遅番は夜が遅すぎる。せわしなく服を畳みつづけ、横目でとらえたお客様をのがしてはならない。
今の時代、接客態度によってはインターネットで実名入りの悪口を書きこまれてしまうので、一秒たりとも気がぬけなかった。
毎日、帰るころには煮えすぎた野菜のようにくたくた。
その日もくたびれた身体をひきずりながら、家路を急いでいるところ、目に入ったのがそのダンボール箱だった。
 箱の前面に張り紙がしてある。
――どうかこの子をお願いします――
捨て猫
中でなにかの動く音はしていたが、鳴き声は聞こえなかった。
ここに置きっぱなしだと、明日には保健所行きかもしれない……「殺処分」という文字が脳裏をよぎった。
しかし、ダンボール箱からときおりのぞいて見えるのは、猫の耳ではなかった。
黒い、棒線?
ハンガーのようにも、帽子のようにも見える。
見たことあるもののようで、見たこともない形……
どんな生きものであれ、殺処分はまぬがれないだろう。
わたしは、おそるおそる近づいてみた。見え隠れしている黒いハンガーは、かすかに揺れてもいる。
一歩ずつ、さらに近づく。
と、人工的な甘いにおいが、ふんわり鼻腔をくすぐった。
女性用シャンプーの香りだろうか?

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ダンボール箱のそばまで辿りつくと、思いきって上からぐいとのぞいてみた。
が、それでも正体はわからない。
黒い棒のような直線と、弓なりの曲線が無意味に動きまわっている。
箱の中で、はしゃぐように飛び跳ねているそれは、わたしの存在に気づくと、のけぞるようにからだを曲げた。
目があるのかもわからないが、視線を合わせようと、しゃがんでその実体を確かめる。直線と曲線の連なりを、心を無にしてつなぎあわせてみる。

それは、文字としかいいようのない形をしていた。
軽やかにバウンドしながら、タレ目の恵比寿様みたいな笑い顔で、わたしを見つめている(ような気がした)。
真正面から見ると……という文字。
それは人の顔くらいの海苔を切り抜いたような、黒色の文字だった。

「飼育方法」と書かれた紙も添えられていた。
夜露で文字はにじんでいたが、なんとか判読できる。
明朝体をすこし崩したような字が、罫線もないのにまっすぐ並んでいた。
 飼育方法
 餌:紙。できれば新聞紙を丸めてやわらかくしたもの。朝と夜。
 トイレ:排泄物はすぐに気化するため、とくに心配なし。
 しつけ:日本語をいくつかおしえました。

と、その刹那、が大きく跳ねて、わたしの膝に乗り、お腹のあたりにすり寄ってきた。
――育てたい。

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昨年秋に35歳を迎えてからというもの、なにかを育てたいという欲求が抑えきれないほど湧きあがることがあった。
動物を飼うことは、アパートで禁じられているので叶わない。
仕方なくわたしは、せっせと花屋に寄っては観葉植物を手に入れた。
ほどなくして、ひとり暮らしのアパートはちいさな熱帯雨林となった。
……このタイミングにして、捨てられた
わたしはどこかで運命的なものを感じていた。
果たしてが動物なのか植物なのかといわれたら、黙るしかない。
大家さんに咎められたら……今度こそ引っ越そう。
それでいい。

と暮らしはじめて半年が過ぎた。
「しゃんぽ! しゃんぽう!」
拾ったころと比べて、ひとまわりほどふっくらとしたが、新しい言葉を何度も繰り返しはじめた。
「さあんぽ!」
「しゃんぽ? さあんぽう? ん? もしかして散歩って言いたい?」
がわたしの腕にすり寄る。
「さ、さんぽ! さんぽ!」
「そっか、家にずっとじゃ、つまらないか……ちょっとぽっちゃりしてきたし、ちょうどいいかもしれないね」
赤ん坊の頭までをすっぽり包むタイプの抱っこひもで、容を公園まで運ぶ。元々は林業試験場だったという森林公園は、この地域では最も広い敷地面積をもつ。調べてみたところ、端から端まで歩くと、2駅分ほどの距離があるそうだ。

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園内は、小春日和で賑わっていた。
レジャーシートを広げピクニックをする団体、ランナーたちの描く円形の人群れ、芝居や演奏の練習をする人たち……
驚いたのは、犬の散歩をしている人に混じって、わたしのように文字を連れている人もまばらにいたことだ。
珍しがる人も驚いている人もなく、当たり前の風景として、文字のペットたちは世界になじんでいた。
あたらしい世界。
わたしは思わず声を漏らした。
抱っこひもからが顔を出すのも気にせず、陽光の当たる場所を歩いていると、うしろから声をかけられた。
「ずいぶんお行儀の良い子ですねえ」
話しかけてきたのは、という字を連れている男だった。
細身のジーンズに生地の良さそうな白シャツを着ている。
「あ、はい。散歩に来るのは初めてで……」
「いやあね、あなたにこんなことを言うのも失礼なんですが、を飼いだして間もないころ、野良のにやられましてねえ」
「や、られ……?」
「もしかして、ご存じない? 手術はねえ、早いほうがいいですよ。まさかってことがある。あんなに何十匹も産まれたら、たまったもんじゃない」
そもそもは雄なんだろうか? 雌なんだろうか?
そんなことも知らずに、わたしはを飼っていた。
そして、手術のことよりも、の本能に「増殖」が組み込まれているのにショックを受けた。
「すみません、わたし何も知らなくて」
「いえいえ、うちの子はもう心配ありません。避妊手術をしっかり済ませましたから。あ、実はしつけがうまくいって、言葉を話すようになったんです。聞いてもらえます?」
男がの天辺をなでると、は、こほんと咳きこんでから、こんなことを言った。
「わたしはね、かなしい歌ばかりうたう歌手だけど、かなしい恋はしたことない」
から、甘い女性用シャンプーのにおいが漂ってきた。
どこかで嗅いだことのある香り……
それは、を拾ったときのものと、おなじにおいだった。

散歩の夜、やけに目が冴えて眠れずにいた。
おちつくために水でも飲もう。
ベッドから出て、いちど消した灯りをつけた。
ふと気になっての寝床に目をやると、そこにいるはずのがいない。
どこ? どこにいるの?
急に焦る気持ちが高まり、家じゅうをくまなく探した。

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すると、リビングのベランダに面したカーテンがちらちらと揺れている。揺れるたびに、カーテンの奥にある漆黒の闇がこちらをのぞきこむ。
「なんだ、こんなところに……」
勢いよくカーテンをめくると、窓の外には。ひるま、公園で会ったが、うちの窓ガラスをカリカリと引っ搔いている。
は、荒っぽくちぎられた短いリードをサンズイにぶらさげ、リードの先からは赤い液体がしたたりおちていた。
家に帰そうと窓を開け、を抱えると、わたしの右手をがつよく噛みつく。その隙には大きく跳躍し、外の高木に飛び移った。もそれにつづく。
は、大きくしなる枝に乗り、いちどだけこちらを振り返ると、すばやく向こう側へ行ってしまった。
!!!!!」
大声で呼んでも返事はなかった。
風もないのに、木の葉の揺れる音がしていた。
わたしはその音が遠のくまで夜の先に耳を澄ました。

青い夏

千波が消えたのは、大学二年の夏休みだった。
消えた、といっても、故郷の家族や友人、恋人から見ての話で、実際のところ、千波は消えてなどいなかった。
ガミーヤとニルヴァとの国境付近に千波はしかと存在していた。
ロバ二匹と男ひとりと一緒に。

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大学の夏休みを利用した海外旅行が、予定より長引いている。
村瀬に出会ってしまったからしかたない。
つまりは、そういうわけだった。

故郷の恋人に手紙を書こうと小さな土産屋で絵葉書を買ってはみたが、
ひと文字も進まない。
そのうち絵葉書の風景のある場所から遠く離れてしまった。

鈍色の空の向こう側に、かすかな青が見えた。
いつもの通り雨。
千波は空の様子をたしかめると、雨のなか宿の窓から身を乗り出し、
村瀬の姿をさがした。
ほとんどが平屋のこの地域にはめずらしく三階建ての最上階が、千波たちの部屋だった。
ざざ降りの峠は過ぎていて、町全体を見渡せたが、そこに村瀬の姿はない。

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――こんどこそ置いていかれたのかもしれない。
千波はくるりと部屋のほうに向きを変え、扉付近の机に目をやった。
開いたままのノートパソコンが村瀬の気配を伝えている。
電源もつけっぱなしのようだ。

大丈夫、PCを置いて行ってしまうわけない。
昨日、あの人はこんなことを言っていたのだから。

「このPCは俺の命だよ。……といってもまあ、俺の命は軽いけどな」

村瀬はフリーのジャーナリストだ。
今はガミーヤの少数民族を取材していて、
原稿はすべてこのパソコンから送っている。

「軽い命なんて、ないよ」

千波は村瀬をにらみつけながら言った。
四十歳と遥かに年上の村瀬に対して、なぜか千波は苦労して生んだ母親のような気持ちになることがあった。

「そういうまともなことも言うんだな。感心する」
「だって"命"なんて言うから」
「はは、よく考えてみたら、"命"ってダサイ言葉だよな」
「命をダサイなんて言わないでください。不謹慎です」

どうでもいいとでもいうように、笑いながら村瀬は左肩を撫でた。
そこには古い傷跡があった。
左肩から二の腕にかけて、赤鬼の巨大な爪で引っ掻かれたような大きな傷。
はじめこそ見てはいけないもののような気がして、
傷口の赤いふくらみと目が合うと緊張したものだが、
二か月のあいだですっかり慣れた。
けれど、見るのに慣れても傷の理由には触れられなかった。
わたしたちには、触れられないものばかりある。

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ガミーヤの夏は雨が多い。
はじめて村瀬と会った日も雨が降っていた。
宿の軒先で雨宿りをしながらガイドブックを眺めていると、
見知らぬ男が母国語で話しかけてきた。

「そういうの、やめたほうがいいですよ」

短く切りそろえられた髪に、伸ばし放題の髭。
男は土地の雰囲気にすっかり馴染んでいる。
旅の初日だった千波は、どこか気恥ずかしさをおぼえた。
おろし立ての真っ白な靴を履いているような気分で居心地が悪い。

「え?」
「そういうの」

顎をくいっと上げて、ガイドブックを指すと、顔の横幅いっぱいにスマイルを浮かべた。

「そいつを持ってる旅行者は金持ちだって、このあたりでは認識されてる。襲われますよ」

千波は村瀬をひと目見て、イエスキリストだと思った。
単に村瀬が痩せて、髭を生やしているからではない。
笑っていても苦しんでいるようで、その表情が高校のとき毎日目にした、
十字架のイエス像そのものだったから。
千波は一瞬にして村瀬を神格化し、村瀬とのストーリーに潜り込んだ。

村瀬との日々を重ねるうち、これまで見てきた景色には輪郭がなかったと千波は気づいた。
視力に問題があったわけではないのに、
ぼんやりとしか見えていなかったのはなぜだろう。
千波は人の顔を判別するのも苦手で、恋人の顔さえ間違えることがあった。
眼球がすりガラスで覆われていたのにちがいない。
村瀬がそれを外してくれた。

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調査で村瀬は何日も宿へ戻らないことがある。
現地語を話せない千波は、そのあいだ宿から遠くへは行けない。
暇で暇でおかしくなりそうだった。
千波がそのことをなじると村瀬はこう言った。

「あんまり、のめりこむなよ」

口をかたく結んだまま、千波はちいさくうなずいた。

「のめりこむな」とは言うが、「帰れ」とは言わない。それが村瀬だ。

「これ、土産。背負うと飛べるんだってさ」

軍用鞄から取り出したのは、親指サイズの鳥の羽根だった。

「これを背負うの?」
「えっと、こうやって肩に乗せて、エン、ハラカラ、マラハラ、エンハラカラマラハラ……」

小さな羽根がキュルルと細い音を立てながら、すこしだけ大きくなった。
やがて、生きものみたいに不規則な動きで、
背中の中央あたりまでの大きさに広がった。

「俺だと、これが限界だなー。名人になると、背面を覆うほどの大きさになって、ばっと空へ上昇するんだ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「二回言うときは嘘だね」
「ほんとです」
「じゃあ、早く修行して大空へ飛翔してくださいな」
「もちろん、と言いたいとこだけど、俺は三半規管が弱いから。上昇しても、耳がキーンとなって苦痛だろうな」
「ああ言えばこう言う」

ふたりは同時に笑った。
すぐに村瀬は真剣な表情で、まばたきもせず千波をまっすぐに見つめた。

「一緒に飛ぼうな。現地の名人にまた教わってくる。だから、一緒に飛ぼう」

さようならという言葉を覚えたのはいつだったろう?
儀礼的なさようなら以外ほとんど使わず、懐のなかにしまってある。
わたしたちは、たいていの関係を最後まで終えられない。
さようならは覚えたてのときとおなじ、まっさらなままだ。

あれから二週間経っても、村瀬は戻ってこない。

「ヘチマとモグラに餌をやらなくちゃ」

千波は、ロバ二匹の世話をすることで平静を保とうとした。

「おまえたちはいいなあ。モグモグしてりゃあいいんだから」

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雨季が終わり、青すぎる空はあたらしい季節を告げている。
一陣の強い風が千波の真正面から吹き去っていった。
大きな翼のはためく音にも似ている。
もしかして……
千波は空を見あげて青の隙間まで隈なく探したが、雲さえみつからない乾季の空が広がっているばかりだった。