青い夏

千波が消えたのは、大学二年の夏休みだった。
消えた、といっても、故郷の家族や友人、恋人から見ての話で、実際のところ、千波は消えてなどいなかった。
ガミーヤとニルヴァとの国境付近に千波はしかと存在していた。
ロバ二匹と男ひとりと一緒に。

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大学の夏休みを利用した海外旅行が、予定より長引いている。
村瀬に出会ってしまったからしかたない。
つまりは、そういうわけだった。

故郷の恋人に手紙を書こうと小さな土産屋で絵葉書を買ってはみたが、
ひと文字も進まない。
そのうち絵葉書の風景のある場所から遠く離れてしまった。

鈍色の空の向こう側に、かすかな青が見えた。
いつもの通り雨。
千波は空の様子をたしかめると、雨のなか宿の窓から身を乗り出し、
村瀬の姿をさがした。
ほとんどが平屋のこの地域にはめずらしく三階建ての最上階が、千波たちの部屋だった。
ざざ降りの峠は過ぎていて、町全体を見渡せたが、そこに村瀬の姿はない。

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――こんどこそ置いていかれたのかもしれない。
千波はくるりと部屋のほうに向きを変え、扉付近の机に目をやった。
開いたままのノートパソコンが村瀬の気配を伝えている。
電源もつけっぱなしのようだ。

大丈夫、PCを置いて行ってしまうわけない。
昨日、あの人はこんなことを言っていたのだから。

「このPCは俺の命だよ。……といってもまあ、俺の命は軽いけどな」

村瀬はフリーのジャーナリストだ。
今はガミーヤの少数民族を取材していて、
原稿はすべてこのパソコンから送っている。

「軽い命なんて、ないよ」

千波は村瀬をにらみつけながら言った。
四十歳と遥かに年上の村瀬に対して、なぜか千波は苦労して生んだ母親のような気持ちになることがあった。

「そういうまともなことも言うんだな。感心する」
「だって"命"なんて言うから」
「はは、よく考えてみたら、"命"ってダサイ言葉だよな」
「命をダサイなんて言わないでください。不謹慎です」

どうでもいいとでもいうように、笑いながら村瀬は左肩を撫でた。
そこには古い傷跡があった。
左肩から二の腕にかけて、赤鬼の巨大な爪で引っ掻かれたような大きな傷。
はじめこそ見てはいけないもののような気がして、
傷口の赤いふくらみと目が合うと緊張したものだが、
二か月のあいだですっかり慣れた。
けれど、見るのに慣れても傷の理由には触れられなかった。
わたしたちには、触れられないものばかりある。

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ガミーヤの夏は雨が多い。
はじめて村瀬と会った日も雨が降っていた。
宿の軒先で雨宿りをしながらガイドブックを眺めていると、
見知らぬ男が母国語で話しかけてきた。

「そういうの、やめたほうがいいですよ」

短く切りそろえられた髪に、伸ばし放題の髭。
男は土地の雰囲気にすっかり馴染んでいる。
旅の初日だった千波は、どこか気恥ずかしさをおぼえた。
おろし立ての真っ白な靴を履いているような気分で居心地が悪い。

「え?」
「そういうの」

顎をくいっと上げて、ガイドブックを指すと、顔の横幅いっぱいにスマイルを浮かべた。

「そいつを持ってる旅行者は金持ちだって、このあたりでは認識されてる。襲われますよ」

千波は村瀬をひと目見て、イエスキリストだと思った。
単に村瀬が痩せて、髭を生やしているからではない。
笑っていても苦しんでいるようで、その表情が高校のとき毎日目にした、
十字架のイエス像そのものだったから。
千波は一瞬にして村瀬を神格化し、村瀬とのストーリーに潜り込んだ。

村瀬との日々を重ねるうち、これまで見てきた景色には輪郭がなかったと千波は気づいた。
視力に問題があったわけではないのに、
ぼんやりとしか見えていなかったのはなぜだろう。
千波は人の顔を判別するのも苦手で、恋人の顔さえ間違えることがあった。
眼球がすりガラスで覆われていたのにちがいない。
村瀬がそれを外してくれた。

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調査で村瀬は何日も宿へ戻らないことがある。
現地語を話せない千波は、そのあいだ宿から遠くへは行けない。
暇で暇でおかしくなりそうだった。
千波がそのことをなじると村瀬はこう言った。

「あんまり、のめりこむなよ」

口をかたく結んだまま、千波はちいさくうなずいた。

「のめりこむな」とは言うが、「帰れ」とは言わない。それが村瀬だ。

「これ、土産。背負うと飛べるんだってさ」

軍用鞄から取り出したのは、親指サイズの鳥の羽根だった。

「これを背負うの?」
「えっと、こうやって肩に乗せて、エン、ハラカラ、マラハラ、エンハラカラマラハラ……」

小さな羽根がキュルルと細い音を立てながら、すこしだけ大きくなった。
やがて、生きものみたいに不規則な動きで、
背中の中央あたりまでの大きさに広がった。

「俺だと、これが限界だなー。名人になると、背面を覆うほどの大きさになって、ばっと空へ上昇するんだ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「二回言うときは嘘だね」
「ほんとです」
「じゃあ、早く修行して大空へ飛翔してくださいな」
「もちろん、と言いたいとこだけど、俺は三半規管が弱いから。上昇しても、耳がキーンとなって苦痛だろうな」
「ああ言えばこう言う」

ふたりは同時に笑った。
すぐに村瀬は真剣な表情で、まばたきもせず千波をまっすぐに見つめた。

「一緒に飛ぼうな。現地の名人にまた教わってくる。だから、一緒に飛ぼう」

さようならという言葉を覚えたのはいつだったろう?
儀礼的なさようなら以外ほとんど使わず、懐のなかにしまってある。
わたしたちは、たいていの関係を最後まで終えられない。
さようならは覚えたてのときとおなじ、まっさらなままだ。

あれから二週間経っても、村瀬は戻ってこない。

「ヘチマとモグラに餌をやらなくちゃ」

千波は、ロバ二匹の世話をすることで平静を保とうとした。

「おまえたちはいいなあ。モグモグしてりゃあいいんだから」

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雨季が終わり、青すぎる空はあたらしい季節を告げている。
一陣の強い風が千波の真正面から吹き去っていった。
大きな翼のはためく音にも似ている。
もしかして……
千波は空を見あげて青の隙間まで隈なく探したが、雲さえみつからない乾季の空が広がっているばかりだった。