邂逅

闌けた夏の夜だった。
ひぐらしの鳴き声の隙に、鈴虫の声が幻のように聞こえてくる。
仕事帰り、自宅まであと一歩手前というところ。ゆるやかなカーブのちょうどこぶのあたりに、見慣れないダンボール箱が置かれていた。
宅急便の送付状を貼っては剥がし、なんども使ったのだろう。側面には白いシールの跡がいくつも付いている。
ぼろぼろのダンボールは、やっとのことで形を保ちながら、数少ない街灯の真下にあり、箱ぜんたいに光があたっていた。
芝居小屋にいる気分になったのを覚えている。
重要なシーンが始まる直前、観客からの期待を一身に背負っている箱が、その存在感で、こちらになにかを訴えてくるかのようだった。

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わたしは、デザイナーズ・ブランドを扱うセレクトショップで、ハウスマヌカンとして働いている。
広報志望で受けたのに、まずは売り子の経験を、と辞令が出た。勤めはじめてことしで10年。ふと物思いにふけると、「もう10年」と「まだ10年」のあいだを行ったり来たりしてしまう。
それでもわたしは、憧れだったショップで働けることに誇りを持っていた。
タキシード姿のドアマンを携えた、黄金のエントランス。オニキスと石灰岩をラグジュアリーに組み合わせた床。10階までをつらぬく円形の吹き抜け。ディスプレイ用には生の果物を使い、腐敗までをアート作品として陳列する。
どこまでも贅をつくそうという心意気が館内に行き渡り、建物自体が蠱惑的に人々を誘惑する。わたしもこの風景の一部なのだ、と思うと、自分までうつくしいものである気になれた。
もちろん仕事は厳しい。
早番は朝が早すぎるし、遅番は夜が遅すぎる。せわしなく服を畳みつづけ、横目でとらえたお客様をのがしてはならない。
今の時代、接客態度によってはインターネットで実名入りの悪口を書きこまれてしまうので、一秒たりとも気がぬけなかった。
毎日、帰るころには煮えすぎた野菜のようにくたくた。
その日もくたびれた身体をひきずりながら、家路を急いでいるところ、目に入ったのがそのダンボール箱だった。
 箱の前面に張り紙がしてある。
――どうかこの子をお願いします――
捨て猫
中でなにかの動く音はしていたが、鳴き声は聞こえなかった。
ここに置きっぱなしだと、明日には保健所行きかもしれない……「殺処分」という文字が脳裏をよぎった。
しかし、ダンボール箱からときおりのぞいて見えるのは、猫の耳ではなかった。
黒い、棒線?
ハンガーのようにも、帽子のようにも見える。
見たことあるもののようで、見たこともない形……
どんな生きものであれ、殺処分はまぬがれないだろう。
わたしは、おそるおそる近づいてみた。見え隠れしている黒いハンガーは、かすかに揺れてもいる。
一歩ずつ、さらに近づく。
と、人工的な甘いにおいが、ふんわり鼻腔をくすぐった。
女性用シャンプーの香りだろうか?

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ダンボール箱のそばまで辿りつくと、思いきって上からぐいとのぞいてみた。
が、それでも正体はわからない。
黒い棒のような直線と、弓なりの曲線が無意味に動きまわっている。
箱の中で、はしゃぐように飛び跳ねているそれは、わたしの存在に気づくと、のけぞるようにからだを曲げた。
目があるのかもわからないが、視線を合わせようと、しゃがんでその実体を確かめる。直線と曲線の連なりを、心を無にしてつなぎあわせてみる。

それは、文字としかいいようのない形をしていた。
軽やかにバウンドしながら、タレ目の恵比寿様みたいな笑い顔で、わたしを見つめている(ような気がした)。
真正面から見ると……という文字。
それは人の顔くらいの海苔を切り抜いたような、黒色の文字だった。

「飼育方法」と書かれた紙も添えられていた。
夜露で文字はにじんでいたが、なんとか判読できる。
明朝体をすこし崩したような字が、罫線もないのにまっすぐ並んでいた。
 飼育方法
 餌:紙。できれば新聞紙を丸めてやわらかくしたもの。朝と夜。
 トイレ:排泄物はすぐに気化するため、とくに心配なし。
 しつけ:日本語をいくつかおしえました。

と、その刹那、が大きく跳ねて、わたしの膝に乗り、お腹のあたりにすり寄ってきた。
――育てたい。

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昨年秋に35歳を迎えてからというもの、なにかを育てたいという欲求が抑えきれないほど湧きあがることがあった。
動物を飼うことは、アパートで禁じられているので叶わない。
仕方なくわたしは、せっせと花屋に寄っては観葉植物を手に入れた。
ほどなくして、ひとり暮らしのアパートはちいさな熱帯雨林となった。
……このタイミングにして、捨てられた
わたしはどこかで運命的なものを感じていた。
果たしてが動物なのか植物なのかといわれたら、黙るしかない。
大家さんに咎められたら……今度こそ引っ越そう。
それでいい。

と暮らしはじめて半年が過ぎた。
「しゃんぽ! しゃんぽう!」
拾ったころと比べて、ひとまわりほどふっくらとしたが、新しい言葉を何度も繰り返しはじめた。
「さあんぽ!」
「しゃんぽ? さあんぽう? ん? もしかして散歩って言いたい?」
がわたしの腕にすり寄る。
「さ、さんぽ! さんぽ!」
「そっか、家にずっとじゃ、つまらないか……ちょっとぽっちゃりしてきたし、ちょうどいいかもしれないね」
赤ん坊の頭までをすっぽり包むタイプの抱っこひもで、容を公園まで運ぶ。元々は林業試験場だったという森林公園は、この地域では最も広い敷地面積をもつ。調べてみたところ、端から端まで歩くと、2駅分ほどの距離があるそうだ。

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園内は、小春日和で賑わっていた。
レジャーシートを広げピクニックをする団体、ランナーたちの描く円形の人群れ、芝居や演奏の練習をする人たち……
驚いたのは、犬の散歩をしている人に混じって、わたしのように文字を連れている人もまばらにいたことだ。
珍しがる人も驚いている人もなく、当たり前の風景として、文字のペットたちは世界になじんでいた。
あたらしい世界。
わたしは思わず声を漏らした。
抱っこひもからが顔を出すのも気にせず、陽光の当たる場所を歩いていると、うしろから声をかけられた。
「ずいぶんお行儀の良い子ですねえ」
話しかけてきたのは、という字を連れている男だった。
細身のジーンズに生地の良さそうな白シャツを着ている。
「あ、はい。散歩に来るのは初めてで……」
「いやあね、あなたにこんなことを言うのも失礼なんですが、を飼いだして間もないころ、野良のにやられましてねえ」
「や、られ……?」
「もしかして、ご存じない? 手術はねえ、早いほうがいいですよ。まさかってことがある。あんなに何十匹も産まれたら、たまったもんじゃない」
そもそもは雄なんだろうか? 雌なんだろうか?
そんなことも知らずに、わたしはを飼っていた。
そして、手術のことよりも、の本能に「増殖」が組み込まれているのにショックを受けた。
「すみません、わたし何も知らなくて」
「いえいえ、うちの子はもう心配ありません。避妊手術をしっかり済ませましたから。あ、実はしつけがうまくいって、言葉を話すようになったんです。聞いてもらえます?」
男がの天辺をなでると、は、こほんと咳きこんでから、こんなことを言った。
「わたしはね、かなしい歌ばかりうたう歌手だけど、かなしい恋はしたことない」
から、甘い女性用シャンプーのにおいが漂ってきた。
どこかで嗅いだことのある香り……
それは、を拾ったときのものと、おなじにおいだった。

散歩の夜、やけに目が冴えて眠れずにいた。
おちつくために水でも飲もう。
ベッドから出て、いちど消した灯りをつけた。
ふと気になっての寝床に目をやると、そこにいるはずのがいない。
どこ? どこにいるの?
急に焦る気持ちが高まり、家じゅうをくまなく探した。

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すると、リビングのベランダに面したカーテンがちらちらと揺れている。揺れるたびに、カーテンの奥にある漆黒の闇がこちらをのぞきこむ。
「なんだ、こんなところに……」
勢いよくカーテンをめくると、窓の外には。ひるま、公園で会ったが、うちの窓ガラスをカリカリと引っ搔いている。
は、荒っぽくちぎられた短いリードをサンズイにぶらさげ、リードの先からは赤い液体がしたたりおちていた。
家に帰そうと窓を開け、を抱えると、わたしの右手をがつよく噛みつく。その隙には大きく跳躍し、外の高木に飛び移った。もそれにつづく。
は、大きくしなる枝に乗り、いちどだけこちらを振り返ると、すばやく向こう側へ行ってしまった。
!!!!!」
大声で呼んでも返事はなかった。
風もないのに、木の葉の揺れる音がしていた。
わたしはその音が遠のくまで夜の先に耳を澄ました。