星と魚

僕らは生きているかぎり、円に沿って時を進める。
それが、戦わないために定められたルールなのだそう。
学校の教科書ではそう言っている。
大人たちも僕らがある年齢に達すると、あきらめ顔で「夢は夢だよ」と。
がっかりした。
絶望した。

子どものときの僕の夢は生まれた場所からどこまでもまっすぐに、どこまでも遠くへ行くことだったからだ。
直線距離をとにかく伸ばしたい。
涯をこの目で見てみたかったのに。

「ぼくは、ここから一番遠いところへ行くんだ! ずーっとまっすぐ。終点まで。かならず」
四歳の僕だ。

おもちゃの竹刀を振り回しながら、涯へ行く途中の冒険で出会うであろう敵を頭のなかで倒しつづける。
「お、鯖男はロマンチストなんだなあ。いいじゃないか」
父は濃い酒を傾けながら、目を細めて僕を見ていた。
子どもが夢をもつことを禁じなかった父は、一体なにを企んでいたのだろう。

ここではすべてがルールで決められている。
ゆりかごから墓場まで」どころか、「受精卵から遺骨まで」あらかじめ定められた組み合わせで僕らは生まれ、飛びだした赤ん坊は股のところを調べられ、こゆびがついていると魚の名前を、ついていなければ星の名前を授かる。
二足歩行ができるようになると「今日からがあなたたちの未来よ」と告げられ、円の起点に立たせられ、そこから、女の子は時計回りに、男の子は反時計回りに暮らしていく。

交わるのは、ただの二点。
六時のところと十二時のところ。

死ぬまでに何周まわるかは人によってちがう。
一周がせいぜいの人もいれば、三十周も四十周もする人もいる。
ひとり何周まわるかまでは、ルールでも定められなかったのだろう。
戦いがあるたびにルールが増え、考古学も歴史学も禁じられたいまとなっては、ルール以前を知る者は皆無となった。

僕は青年となった。
うつろがどういうことかもわからないくらい、うつろな日常を繰り返していた真夏の夜のこと。
僕はなかなか治らない汗疹と暑さにやられ、寝つけずにいた。
あと何回、この煉獄みたいな季節をやり過ごせば、僕の息の根が止まってラクになるんだ。
袋小路の壁に向かって全速力を強いられているような気分。
くるしい。

それならいっそ、僕の脳味噌を機械にしてくれ!
僕のまるごとを鉄くずにしてくれ!!

やけくそで、父のお気に入りだったブランデーを何杯もあおった。
我をわすれたように酒を飲みながら、片隅の意識は冷静に状況を俯瞰し、「ブランデーグラスを持ってる右手の往復が止まらない。おかしくなってるなあ」とつぶやいている。
やがて僕は撃沈し、朦朧とした意識のままベッドへ向かったが、途中の床に倒れこんでねむってしまったようだった。
激しい二日酔いとバキバキの筋肉痛で目が覚めた。
勤労開始時間は、とっくに過ぎていた。

……こうして、僕はルール違反者となった。あっけないものだ。


「今」という時を、明日まで伸ばして、明後日まで伸ばして、キッカリ一年分伸ばしたところに、あの子は立っていた。

誰かを探すために故郷を捨てたわけではない。
ルール違反者となった僕は、生活を捨て、ルールの及ばない場所まで逃げることを選んだのだ。
噂では、円の端の地面に蓋があり、無頼者の溜まり場になっているらしい。
あるのかないのかもわからないその場所を目指すしか、僕には道がなかった。

 

その道の途中で、あの子に出会った。

晴れわたる空のようになめらかな彼女の肌は、遠目からでも確認できる。
僕は瞬きができなくなった。
この子はこれまで円を何周してきたんだろう? 
こんな場所にいるということは、僕とおなじルール違反者?

好奇心が止まらない。
彼女の赤い唇もまた強力だった。
僕にはそれが、高価な果物に見えて、どうしてもその味を確かめたくなった。
食べたい。食べたい。食べたい……制御が効かない。
一刻も早く目的地へ向かわなければならないのに、足が地面に貼り付いて動けなかった。

一方の彼女は僕の姿を確認すると、ニッコリほほえんで、ゆっくりと近づいてきた。
鞄から取り出した紙になにかをさらさらと書いて、僕に手渡す。

「どうぞ」

「あ、ありがとう」僕は手渡されたメモを開く。

「えっと……はるのみず、ここからいちばんとおいえん? はるの……」

「あの、声に出されると、ちょっとはずかしい、です」

「あ、ごめん、なさい」
僕はメモを何度も何度も頭の中で復唱する。

「ああ!春の水ここから一番とおい円!!」

その瞬間、彼女は顔いっぱいに赤い笑顔をひろげた。

「ごめんなさい、です。あ、ごめんね、ほんとうに。えっと、じゃあ」
そう言って、僕は鞄からペンを取り出し、メモの端に文字を書いて返した。

「じゃあ、これ。はい」

「見ていいの?」

「もちろん!」

「さば、を。さばを。さばを?ん?」

「うん、僕の名前。さばお、じゃなくて、さばを、なんだ」

僕は身体の内部をそっとつままれたような、やわらかい心の揺れに戸惑うばかりだった。

けれど、滞っていた血がいっきに体内を巡り始めたような歓喜を感じてもいた。

……それなのに。
彼女は、手渡したメモを慌てて畳み、僕に突き返してきたんだ。
僕の顔とは正反対の真っ青な顔をして。

ああ、この子はルール違反者じゃない。

真っ当で健全な、円のなかの子なんだ。

僕らにはルールがあった。

時計回りと反時計回りの者どおしは、出会ってすぐに名前を与え合ってはならない。

僕は、先を焦って、この子をルール違反者に招き入れようとしてしまった。

終わりだった。

すでに終わりを迎えていたのに、終わりの先にもまた終わりが待っているなんて、思ってもみなかった。

僕はおそろしく俊敏な動きで彼女に飛びかかる。
首か、腕か、はたまたか背中か。
刻印を探した。
彼女の服を力まかせに破く。
探しに探した。
円の人びとは、身体のどこかに名前を刻まれているはずだった。

「どこだ、どこなんだ!」
僕の目は真っ赤に充血し、瞳孔も開いている。
ようやく彼女の脇腹に、黒く細い文字の連なりを見つけた。
すべてアルファベットの小文字だった。
esther

エステル、ヘブライ語で「星」を意味する。

彼女の名前をひったくるように盗むと全速力で逃げた。
円の端など、どこかにあるはずの地面の蓋が見つからない。

大砲が轟く。
軍楽隊が結成され、おなじ形の目をした兵隊たちが整列する。
時計回り陣では赤の、反時計回り陣では緑のモザイク画が、たちまちに完成した。

上から眺めていた人は「またか」とため息をついて、「まずは落ち着こう」と台所へむかった。
高級そうな紅茶の香りが空から降ってきて全体をつつんだ。