ゼロ

ゼロへ向かって、おれは走った。
瞬く間に偶数が押し寄せ、なにもかもが触れれば割り切れそうな、柔らかいものへと変換されていった。木々は綿菓子になり、コンクリートの地面はシルクに。人間たちは、影響を受けた順からゴム人形へと変貌を遂げる。
――時間がない。
全速力で、偶数でも奇数でもないはずの場所を目指した。

変化は唐突におとずれた。
奇数で成り立っていた世界が、偶数で満タンになった。穏やかな波が、白く球体の星ぜんたいを撫で、時は時間ごととろけてしまうほど、ゆったりと流れだす。11月23日。およそ偶数とは程遠い、奇数のなかの奇数といった日にちだったのに。
朝、目を覚ますと、布団から出した右足でブラウン管テレビをつけた。季節は秋なのに、冬の冷気が突き出した足をつつく。
「本日の天候は晴れ、降水確率はゼロパーセント、雨の心配はありません。パステルピンクの偶数を胸いっぱいに吸い込みましょう。このあと、年間をとおしても雨の心配はありません」
天気予報を告げる無機質な声に、イヤな予感がした。これまで雨が「心配」だったことなんてあっただろうか……
ちゃぶ台に置いた「即日振込融資」の青文字が揺れて見える。うちの宣伝にと200枚ほど印刷したちらしの山だ。刷りたての青インクの文字がにおう。目をこすると、青文字は余計に揺れた。
雨が降れば降るほど儲かる。奇数の青を住処にしている者にとって、胸いっぱいの偶数なんて息苦しい世の中でしかない。金貸し業をしているおれも、その一人だ。日々の割り切れなさに絶望し、貧乏に溺れたやつらへ光を見せるのが仕事。たとえ、すぐに消える一瞬の焔だったとしても、光を与えていることに変わりはない。
家から一番近い自販機で缶コーヒーを買い、その場ですぐに飲み干した。肌寒い朝につめたいコーヒーを摂取すれば、外気と体温が近づこうとする。熱くなる必要なんかない。とにかく落ち着け。
缶コーヒーをもう一本買い、マンションの屋上へ駆けあがった。
上から大通りを覗くと、ドミノ倒しをするように端から骨抜き人間ができあがっていくのが見えた。空気がうっすらとパステルピンクを浮かべている。
――早送りのコマみたいだ。
青い奇数に浸りきったおれはというと、パステルピンクを浴びてもほとんど変わらない。偶数が寄りつかない。しかし、それでも両手の小指だけ、なめくじ状にだらしなく爛れているのに気づいた。
個人の濃さよりも、全体のもたらす威力のほうが強いのか。慄く。
――変わりたくない。このままでいたい。最期は、尖った奇数に埋もれて死にたい。
しばらく缶コーヒーの飲み口をじっと見つめた。変わらずにいるだけでいい。それだけのことが、ひどく困難に思えるのはなぜだろう。歪な、円とも言えない缶の空洞を、視線で焼くほど強く見つめているうちに、ある考えが浮かんだ。
――ゼロはどうだ?
ゼロなら偶数でも奇数でもないはずだ。振り出しに戻って、偶数の勢いが収まるのを待てばいい。
おれは、なけなしの希望をゼロに賭けることにした。
しかし、ゼロなんて、そもそもあるんだろうか。ゼロが「無」を意味するなら、無いもののある場所ってどこだ。そんな思考が頭を掠めたものの、とにかく時が迫っていた。いつの間にか偶数の影響が侵食しており、なめくじ状の爛れが、気づくと中指にまで至っていたのだ。

ゼロへ向かっておれは走った。
背中へ降り注ぐ朝の光だけが、鋭く硬質な奇数を保っていた。
ようやくゼロまでたどり着いたころには、すっかり日が暮れていた。ゼロに群がる人間たちから、真夏のシンクの臭いが漏れてくる。鼻をつまみながら、一歩一歩ゼロに近づく。と、偶数の高笑いが聞こえた。笑いながら容赦なく奇数を襲い、凸凹に構わず丸ごと呑みこむ。
「数を食いものにするから、数に食いものにされるのでしょう。イーブンこそが美」
ゼロは高層ビルのごとくそそり立ち、その穴からは、微かなパステルピンクの炎が手招きするようにゆれている。